御柱祭には1200年以上といわれる長い歴史があり、その起源にはさまざまな説があります。
1.御柱祭の歴史
1200年以上の歴史があるとされる御柱祭は、いつ頃から始まったのか、はっきりとは分かってはいません。延文1年に完成した、全12巻からなる諏訪大社の縁起をまとめた文献『諏訪大明神画詞』には、「寅・申の干支の年に社の造営を行い、貢税などの諸負担は、桓武天皇の御代に始まった」とあることから、桓武天皇の時代からであるとの説が通説となっています。
ただし、「寅・申の干支の年に社の造営を行い」とあることから、諸負担は桓武天皇の時代からであったとしても、造営自体はそれ以前から行われていたと考えられています。そのため、式年造営は諏訪大社の神事としてずっと続けられていたものであり、延暦23年に桓武天皇の勅命によって、諏訪大社の式年造営を信濃国が総力を招集して執り行ったことが、御柱祭の始まりになったと考えられています。
2.御柱の意味
御柱祭では、山から樹齢約200年の巨大な樅の木を8本ずつ切り出し、それを上社前宮と本宮、上社春宮と秋宮のそれぞれの四隅に建てられます。この4本の御柱にはどのような意味があるのかについて、様々な説があります。
代表的な説の1つに、「神殿の柱」であったのではないかという説があります。御柱祭の正式名称が「式年造営御柱大祭」であり、現在は簡略化され、宝殿のみとなりましたが、中世までは鳥居なども含めて造営していました。諏訪大社には本殿がないのが特徴なのですが、この4本の御柱は、かつて本殿があり、その造営を行っていた名残で、現在は御柱のみとなったのではないかという説です。
また、「トーテムポール」なのではないかという説もあります。トーテムポールとは、北アメリカの太平洋沿岸部で暮らしていた先住民族に見られる文化です。家の柱として建てられたもの、村の周囲に建てて領地であることを示したもの、記念として建てられたものがあり、墓標としても建てられることもありました。『日本書紀』に、欽明天皇の后である固塩姫が亡くなった際に、天皇に仕える氏族たちが大きな柱を建てたという記述があり、その氏族の1つが諏訪大社に関わりの深い人物であることから、関係があるのではないかという説です。上社本宮は建御名方命の、前宮は八坂刀売命の陵墓であるとの説もあり、もしそれが本当であれば、その周りに御柱を建てるのはトーテムポールと似通っているとも言えるでしょう。
その他にも、建御雷神との戦いに敗れた建御名方神が「この地から永久に出ない」と誓うことで許されたという神話から、建御名方神が留まる神域であるこの諏訪の地に、御柱は結界を張る役割を果たしているのではないかという説や、「天空は4本の柱に支えられていた」という天地創造神話が世界の様々な地域にあり、同じ本数である御柱は世界の天と地を支える柱の象徴なのではないかという説もあります。